「家族という病」 (幻冬舎新書) 下重 暁子 (著)


~紹介した「くみこ」(女性)さんの記録 ~
(2015年9月26日読書会にて)

91MmCe8NLIL

くみこ

主催者の感想というか勝手な妄想というか戯言


風邪をこじらせたのか、昨日久しぶりに熱が出た。そういう場合は、とにかくご飯をたくさん食べて、冷えピタを張りすぐに寝るというようなことをすると翌日は大抵熱は下がっている。だが、昨日は中々寝つけなかった。熱を出していると物音に敏感になるというかどこか神経が狂うのか、些細な音が物凄く大きく聞こえる。

カンッ!!!

寝ようとしているとこんな音が5秒おきぐらいに聞こえた。どうやら、隣のベランダから聞こえているようだった。

たまらなくなり外に出て身を乗り出し隣の部屋を覗いてみると、洗濯物が干してありそれが風に揺れて、ベランダの手すりにハンガーが当たり音を発していた。

どうすることも出来ない。

諦めて、布団に入り風がやむのをしばらく待った。

だが、やむことはなく眠りを妨げるとともにしだいに頭が痛くなってきた。

そうだと思い、耳栓をしてみたがそうすると心臓の鼓動がうるさく感じて余計に寝れなくなった。

そうなると最悪で、熱を出しているせいもあり気持ちが弱気になり、このまま寝れないせいで死んでしまうのではないかという恐怖が襲ってきた。

そうすると頼るものは、お酒しかない。酒を飲み気絶するように寝てしまえばいいのだ。

常備してある焼酎を求め冷蔵庫を開け、2リットルのパックをそのままがぶ飲みした。

数分後、いままで味わったことないほどの眩暈と頭痛に襲われ、そこからの記憶がほぼないのだが気付くと眠っていた。

6時15分。セットしていた目覚ましの音で目覚めると昨日が嘘のように回復していた。変な咳がやたら出るようになったがまぁいいだろう。

一人暮らしをしているとこんな風になってしまうわけだが、こんなときにつくづく家族がいればなあなんて感じる。

やっと、本題にたどり着いたわけだが、今回の紹介された本は、「家族という病」という本である。まずは、内容紹介を引用しよう。

内容(「BOOK」データベースより)
日本人の多くが「一家団欒」という言葉にあこがれ、そうあらねばならないという呪縛にとらわれている。しかし、そもそも「家族」とは、それほどすばらしいものなのか。実際には、家族がらみの事件やトラブルを挙げればキリがない。それなのになぜ、日本で「家族」は美化されるのか。一方で、「家族」という幻想に取り憑かれ、口を開けば家族の話しかしない人もいる。そんな人達を著者は「家族のことしか話題がない人はつまらない」「家族写真入りの年賀状は幸せの押し売り」と一刀両断。家族の実態をえぐりつつ、「家族とは何か」を提起する一冊。(AMAZONより

家族というものの脆さについて書かれているようだ。

家族なんてそんなものに縛られるのはよくない、なんて思想が新しいように思えるが、こんなことはBC時代にプラトンがすでに主張していた。

そのプラトン的思想が実現していない現在を考えると、いかに家族というものをなくすという社会の実現が難しいかを考えさせられる。

それから、この人のコラムにはいつも納得してしまうのだが、本日アップされたこのお話も参考になりそうだ。

それらを踏まえてこの本を読むと面白いのかもしれないなんて、読んでもいないのに勝手に考えてみた。

そういえば、1年ほど前に「居場所づくりと伴奏型支援」というテーマで、弁護士の馬場望さんという方のお話を聞きにいき、そのときに家族とはなんなのかということを自分なりに考えたことがあったので、お腹減ったーとか、ちんこ論とかそんなことばっかり書いているわけじゃないぞということで、以下に張り付けておきたい。

 

馬場さんのお話から


馬場望(弁護士)さんは、いままでに少年事件、児童虐待、いじめ、学校事故等、子どもの問題に力を入れて取り組んできたそうだ。

このかたがお話した主な内容としては、以下のようなものだ。

なにか事件を犯してしまった子どもは、世間一般的な見方をすれば、困った子というレッテルを張られてしまうが、裏を返せばそれは困っている状況故に犯してしまったことであり、困った子=困っている子という見方をするのが重要である。

現在も、なにか問題を起こしてしまった子たちを支援する取り組みは行われているが、それは短期的なことである。それ故に、再び問題を起こしてしまいそうな状況になってしまったときに気づくことが出来ず(そのような行動を起こしてしまう子は周りの環境改善もしなければならないのでその子がいくら行動を起こさないと判断できてもその後はどうなるかは分からない)再び一から関係性を築いていかなければならないという負のスパイラルに陥りやすい。そうならないためにも、やり直しのきく伴走型支援が必要ではないか。

DVや性的虐待などの暴力を肉親ないし周りの環境から受けてしまった子どもたちを守る施設(児童養護施設も当てはまるが、18歳を過ぎるとその対象から外れる)子どもシェルターというものがある。ここでは、専門的な知識を要した常勤のスタッフや弁護士などが頼もしくバックアップしてくれるが、上記同様にその施設を出た後のサポートが難しい。

また、シェルターでは、携帯が使えず(親などの連れ戻しや悪いつながりからの断絶などを考慮して)、当然のことながら酒やタバコが吸えない。シェルターとして機能させるためには当たり前といえばそれまでではあるが、その規制が子どもたちにとっては苦痛になる可能性があり、シェルターを出たいという思いになってしまう。

 

そのような中で、出会った団体


 馬場さんはそれらを鑑みて、なにか出来ないかと思っていたとき一般社団法人ストリート・プロジェクトの取り組みを知る。

ストリート・プロジェクトの取り組みをホームページの文章から引用した。(気になる方は是非、ホームページを全文お読みいただければと思う)

私たちが目指すこと

生きづらくさまよえるユースに、自立と夢の実現を!

ミッション

虐待や困窮...生まれた家が違うだけで中卒のままであったり、親の離婚・再婚・失職などにより、高校中退のように学ぶ機会を失い、そのまま低賃金の人生へ導かれるユースが大勢います。そんな「生きづらく、さまよえるユース」が小さな自信を積み重ねながら、自分の可能性を広げて自立&夢実現への道を踏み出すきっかけをつくり、しっかり歩き始めるまで伴走すること。そして、いつでも帰って来ることのできる居場所であること。

団体趣旨(団体趣旨の中の一部分を抜粋)

彼らは「私は一人じゃないんだ。」「何でも相談できる人がいる」という大人や社会への信頼感や安心感が得られれば、失敗を恐れず『自分が選べる人生』のために動きだすことができます。ストリート・プロジェクトはそんな彼らの伴走者であり、もうひとつの我が家であり続けたいと思います。みなさん、今すぐ、無理なくできることで未来を担うユースのために共に動き出しましょう!ぜひ、私たちストプロの仲間になってください!

プロジェクト

無料塾★学び舎1525

進学等を断念していた中卒・高校中退ユースの学びの場。

たまごの会

「気になる仕事」のやりがいから待遇まで本音が聴ける場。

ごちハウス

どんな話でも真剣に向合い聴いてくれる大人がいる、ホッとできる居場所。

ストプロ★フェスタ

活動報告を通して「生きづらくさまよえるユース」の存在と現状を伝える場。

ストプロ★シンポジウム

情報の共有と問題解決のためのアクションに繋がる討論をする場。

馬場さんは、その取り組みの中で、ごちハウスのようなものを展開していきたいと言っていた。

ここで、ごちハウスについても引用しておこう。

ごちハウスGochi House

目的

どんな話でも真剣に向き合って聴いてくれる大人がいて、ホッとできる居場所であり、
ユースが、オウチご飯を食べながら夢や目標を語れるようになる家です。

背景

帰る家(実家)がない子や、ハウス(建物)はあってもホーム(家族・絆)レスの状況にあるユースがいます。悩みや問題を相談できる人がいなかったり、「ご飯なんて食べなくても平気、意味ないし」と言い切るほどメンタル面で辛い思いをしている彼らと出会う中、まずは一緒にオウチご飯を食べよう!と思いました。

具体的なアクション

まずは、ユースと一対一で(グループの場合も有り)オウチご飯を食べながら向き合います。ご飯を食べると元気が出てくる。元気が出てくれば、少しずつ気持ちを話してくれるかもしれない。それからどんな伴走をできるか考えていきます。

今後の展望

ごちハウスは、ユースにとって、温かく、それでいて一歩踏み出す勇気や元気が出てくる「もうひとつの我が家」となることを目指します。

※ごちハウスは、『ごちそうさまが言える家(ハウス)』の略称です。
※ごちハウスにつきましては、ユースの安全と安心を守るため、当初場所は公表しない考えでしたが、事務所をごちハウス内に移転した為、オープンになりました。ただし、活動によっては紹介者(教職員・保護司・弁護士・社会福祉士・精神保健福祉士・民生委員等)が必要なものもあります。まずは、お気軽にお問合せください。

このようなことを行っていきたい理由としては、馬場さんご自身のこれまでの経験や思考から、まずは一緒にご飯を食べれるような気軽な環境を作ることで、子どもたちの問題解決に繋がるのではと考えていたためである。そして、それは、このごちハウスの背景に書かれているものと一致する。

なので、この取り組みをヒントに、馬場さんの活動している都内(都心近く)でも行っていくことがこれからの目標だそうだ。

 

お話を聞いて


 私は、家庭環境もとりわけ変わったこともなく世間一般的な価値観では理想的と思われるようなものだったので、困った子=困っている子ではなかったと思う。これはあくまで主観的根拠なので客観的事実でみたらそうでなかったかもしれないが。

ご飯を食べるということであれば、両親の仕事が忙しく遅くならない限りは、一家で食べていた。そして食べているときは、テレビなどを付けずに会話を大切にするようルールづけられていた。思春期の頃の私は、逆にそれが煩わしくほとんど無言で食べていた記憶しかなく、たまに一人で食べるときは、好きなテレビをつけながらということに喜びを感じていたほどだ。だが、いま考えるとそれは、煩わしさからの解放ということで得られる喜びであったのだろう。もし、一人で食べることが日常化していたら寂しさという孤独に変わっていたはずだ。

寂しさという感情が訪れるのは、孤独なときである。孤独なときは、周りに誰もいないときである。そして、それから逃れたいときに誰かにすがりたい。その誰かは、自分のことを理解してくれる存在であればあるほど、寂しさは消え孤独から解放される。

子どもにとって寂しいときに一緒にいたいのは、生まれた時から一緒にいる家族という唯一無二の族である。その族が成立しなくなったら、友達という族に頼ったり、それを言葉巧みに利用する族に心を許すことになる。

そういった許しを求めてしまうのは、逃げ場なき選択の少なさゆえの意志であり、自らのモラル的判断での意志ではない。子どもという経験少なきなかでは、モラル的判断による正しい許しへの意志に作用するとは言い難いため、もちろん例外はあるにせよ世間一般でいうところの間違った方向に行く可能性が高い。家族というものがうまく機能していればその判断の助け舟を出し救うことができる。だが、それが機能していない場合の逃げ場所は、地域コミュニティが崩壊している現代ではみつからない。

そのためにもその助け舟を出し救ってくれるような大人の存在する場所が必要である。そしてそれは気軽に立ち寄り相談に乗ってくれるまさに家族のような場所というのが重要なのだろう。

そんな文章を書いていて、ふと、かつて家族について自分なりに思考した文章を思い出したので、最後に追加しておこう。

 

「家族という言葉の虚構性」


 あなたにとって家族とはなんですか?

心をやすらげる存在ですか?

「レイチェルの結婚」を観て、改めて考えてみたくなった。

 家族というものが成立する条件はなんだろう。日本において、家族という言葉を規定すると、血のつながり(遺伝でもいいが)のある人が集まった共同体とでも言えば多くの人は納得するだろう。

だが、これもよくよく考えてみると、血のつながりのあるのは、母と父はそうではなく子どものみがその条件に当てはまる。

つまり、母の血(X)、父の血(Y)、子どもの血(XY)という具合だ。そのため、血のつながりのある共同体と規定してしまうと、母と父には、なんの血のつながりもないためそこに矛盾が生じてしまう。では、母と父の血を受け継いだ子どもがいる共同体を家族と規定すればいいのだろうか。

例えば、男と女がいてどうしても子供が生まれなかった。そこで、養子(二人とまったく血縁関係のない)をもらうことにして育てた。そうなると、母の血(X)、父の血(Y)、子ども(Z) というふうに、まったく血のつながりがない。この場合は、家族と規定できないのだろうか。しかし、そう問われて「それは、家族ではありません」と答える人はいないだろう。なのでこれも、家族である。

では、その養子の子ども(Z)と血縁関係のある人物は家族といえるか。ちなみに、その血縁関係のある人物は、その子どもに一度も会ったことはない。そう、問われると「家族ではない」と答える人が多くなるだろう。

故に、家族という言葉を作り上げるのは、血縁関係という単純なくくりではなく、生まれて一緒に暮らした人と築き上げた共同体というくくりが「家族」という言葉の核ではないだろうか。

最後に、「紀子の食卓(2006年、園子温監督)」という映画を乗せて置こう。

この作品は、家族なんて作りものだからこそ、家族らしい雰囲気を演じればいいんだなんてことを突き付けられて、とくに最後は衝撃的。しかも、いまをときめく吉高由里子のデビュー作なので必見!!

おわり

本の行方


くみこ→→→→→とりこ
家族という病 (幻冬舎新書)
下重 暁子
幻冬舎
売り上げランキング: 111