「動物農場―おとぎばなし」 (岩波文庫) ジョージ オーウェル (著), 川端 康雄 (翻訳)


~紹介した「げん」(女性)さんの記録 ~
(2015年9月26日読書会にて)

51t-f+XIfWL げん

主催者の感想というか勝手な妄想というか戯言


この本は、僕の手元にやってきたもの。紹介者の話を聞いて、最初はある映画が浮かんだ。

内容(「BOOK」データベースより)

「すべての動物の平等」を謳って産声をあげた動物農場。だが”ぶた”たちの妙な振舞が始まる。スノーボールを追放し、君臨するナポレオン。ソヴィエト神話とスターリン体制を暴いた、『一九八四年』と並ぶオーウェルの傑作寓話。舌を刺す風刺を、晴朗なお伽話の語り口で翻訳。(amazonより

ぶたの話なので、ベイブが思い浮かんだわけだが見当違いだった。この物語で登場するぶたは内容紹介にも書かれているようにスターリンを模している。そのため、私利私欲を満たし反発するものには容赦のない残虐なぶたである。

ぶたを頂点とする動物たちのヒエラルキーをスターリン体制における人間たちのヒエラルキーに置き換えているわけだ。

この本を読み終えてから思い浮かんだ映画がある。それは、「猿の惑星」である。

猿の惑星といえば、以下の5シリーズがあげられる。(「猿の惑星・創世記(2011年)」「猿の惑星・新世紀(2014年)」以外に)

・猿の惑星 (1968)
・続・猿の惑星 (1970)
・新・猿の惑星 (1971)
・猿の惑星・征服 (1972)
・最後の猿の惑星  (1973)

1968年に公開されたものが予想外にヒットしたから、その後のものは半ば無理やりに続編が作られた感はいなめないが、今回紹介された「動物農場」のように当時の社会状況を反映し、かなり風刺のきいたディストピア作品となっている。

ここからは、この”猿の惑星”について詳しく書かれた本、「映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで 町山智浩著 洋泉社 (2002年)」から引用し要点をまとめたので、以下に載せておきたい。まぁ自分なりの備忘録もこめて。(この本は、「猿の惑星」以外にも、「2001年宇宙の旅」や、「時計仕掛けのオレンジ」「ダーティーハリー」「タクシードライバー」などの、1960年代~1970年代にかけての映画が当時の社会状況を踏まえてどのように制作されたのか詳しく書かれているので興味を持った方は是非ご一読を!!)

映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで (映画秘宝COLLECTION)

「猿の惑星」(1968年公開)


・「あなたが猿の社会を見ているとき、思うはずだ。自分は鏡をのぞいているんじゃないかとね。それこそ、この作品の趣旨なんだよ。人間の社会も、猿の社会もかわらないじゃないか。彼らは少々愚かに見えるけれど、わたしたちのほうこそ、習慣、風習、態度などの点で、彼ら以上に愚かなことをしているじゃないかとね」(フランクリン・J・シャフナー監督の発言)

・この作品は、60年代アメリカ社会がメタファーとなっている。マーティン・ルーサーキング牧師をリーダーに黒人たちは自由と平等を手に入れるため公民権運動を起こした。キング牧師は非暴力闘争を貫いたのだが、一方で警官の横暴や白人至上主義者たちの虐殺に怒りマルコムXやブラック・パンサーのように武力によって平等を勝ち取ろうとした武闘派も台頭した。65年から「猿の惑星」公開の68年までに発生した黒人暴動は300件以上。さらに、ベトナム戦争での敗北。白人優位社会の崩壊それを反映したのがこの作品。

・映画の冒頭、宇宙船が不時着したのは地球ではなく(この時点で本当は地球だったと分からない)、言葉はしゃべれず、獣のような人間が存在していた。代わりに猿が言葉をしゃべりこの星に君臨していた。宇宙飛行士タイラーはゴリラに網で狩られ、裸にされ首輪をつけられて、まるで、アフリカで拉致されアメリカに連行された黒人奴隷のように連行された。

・この猿のなかにも人種的な構造がある。最も数が多いのはゴリラで、彼らは肉体的に強く、戦闘的で軍事に従事している。顔の黒さで判るように黒人を象徴している。政治的に支配しているのがオラウータン。彼らは官僚的に政治を支配している。赤みがかった金髪で明らかなようにイギリス系白人を象徴している。最も権力が弱いのがチンパンジー。科学や芸術的文化を牽引している。黒い髪に白い顔の彼らはユダヤ系に近い。

・猿たちの中でこういうセリフがある。「人間は娯楽のため、あるいは、欲望や強欲のために殺す。そうだ、人間は同胞の土地を手に入れるために同胞を殺す。やつらを繁殖させるな、人間は自分の住みかも他人のも砂漠にしてしまう」

・物語が進むにつれて明確に見えてくるのだが、人間のタイラーのほうが野蛮に見えてきてしまう点。なぜなら猿たちは「猿は決して猿を殺さず」というルールの中でまとまっているから。

・「宇宙船を作るほど科学の進歩した人類が、地球上では同じ人間相手に今も殺し合いをしている。なんという矛盾だろう」冒頭でタイラーはこうつぶやく。一方で宇宙開発、一方でベトナム戦争、核の脅威。冷戦の構造をこの一言で述べている。

・オラウータンのザイアス博士は「人間は悪魔の手先だ」と徹底的に憎む。それは彼が人間の破壊的な性質のことを数々の「証拠」から知っているからである。ラストシーンで、タイラーは誰も近づかない「禁断地帯」に入り込みその「証拠」を知る。変わり果てた自由の女神。「ここは地球だったんだ。人間はとうとうやっちまった」とタイラーは嘆く。

 

「続猿の惑星」(1970年公開)


・この作品は一昨目の直後から始まる。タイラーは「禁断地帯」の地下で核戦争の生き残りである人間を見つける。彼らは放射能によって異形となりミュータントとなっていた。彼らは「自分たちを作った神」として一発で地球を吹き飛ばすコバルト爆弾を崇拝していた。これは平和の武器だと主張している。これは当時の核抑止力による均衡を皮肉的に表している。

・人間を憎むザイアス博士とウルサス将軍率いるゴリラ軍はミュータントを全滅させるために侵攻する。だが、その軍勢の前に、チンパンジーたちが「戦争反対」「ラブ」「ピース」と書いたプラカードを掲げて反戦デモをする。それをゴリラが蹴散らす。これは当時のベトナム反戦デモの踏襲である。

・最後に、すべてに絶望したタイラーが自らコバルト爆弾を作動させて地球を滅亡させる。「宇宙の中の緑色のどうでもいい天体が死んだ」というナレーションで映画は終わる。

 

「新・猿の惑星」(1971年公開)


・続編を作らないつもりで脚本家デーンは前作で地球を爆発させたのに対して、経営の悪化する一方のFOXは、さらに続編を要求した。そこで、デーンは猿のコーネリアスとジーラがタイラーの宇宙船で現代(1972年)にタイムスリップしてくる話を考えた。

・この作品は第一作のパロディといってもいい。コーネリアスたちは、タイラーと同じように「しゃべれる獣」として人間を驚かせ、「危険な存在」として弾圧される。

・コーネリアスはボクシングを観戦して「人間は野蛮だ」と言い、ジーラはフェミニスト団体の講演会で男女同権を訴える。彼らの思想は中産階級の白人に多い左翼リベラルで、ユダヤ系のステレオタイプといえる。

・一方で、彼ら人類にとって危険だから抹殺すべきだと政府高官ハスラインは言う。政府に追われたコーネリアス夫妻はサーカスにかくまわれ、馬小屋の藁の上で赤ん坊を出産する。これはキリスト誕生を模している。さらに、ハスラインにコーネリアスの息子を殺すように詰められたアメリカ大統領は「キリストを赤ん坊のうちに殺そうとしたヘロデ王のようにはなりたくない」と言う。しかし、ハスラインは自らの手でコーネリアス夫妻を殺す。最後、生き残った息子シーザーのアップで映画は終わる。これは、彼が将来、猿の民を率いてモーゼになることを暗示している。

 

「猿の惑星・征服」(1972年公開)


・「新・猿の惑星」はヒットしたもののFOXはいまだ経営難で、もう一本欲しがった。そこで、「猿の惑星・征服」が生まれた。

・犬や猫が疫病で死に、代わりにアフリカから猿を大量に輸入した。最初は、犬猫同様にペットとしていたがそのうち靴磨き、掃除夫、皿洗いなどのいわゆる3K労働で使われるようになり、自由を求めて反逆する。これは、黒人の歴史のパロディ。

・黒人は60年代までハリウッドでは完全に無視されていた。だが、71年にアフリカ系のメルヴィン・ヴァン・ピープルズが製作・監督・脚本・主演してオール黒人のキャスト、スタッフで撮った自主映画「スイート・スイート・バック」が1750万ドルを稼ぎ出したのを見てハリウッドは無視できなくなった。その後、黒人映画が数多く作られヒットするようになった。

・前作で生き残ったコーネリアスの息子シーザーは、知性を隠して静かに暮らしていたが、同胞たちの悲惨な扱いを見て、武装蜂起するため立ち上がる。「残された手段は一つ。革命だ」というシーザーのセリフは、過激派黒人運動家マルコムXの「必要とあらばいかなる手段も」から取っている。監督がいうにはこの映画はワッツ暴動についての映画らしい。ワッツ暴動とは、65年ロサンゼルスのワッツ地区で起こった史上最大の人種暴動で、五万人の黒人が武装蜂起し、約3万人の警官隊および州兵と激突した出来事。

・この映画のラストでは武器を持った猿が街に火を放ち、人間をみな殺しにする。シーザーの唯一の理解者マクドナルド(黒人)は、黒人までが猿にリンチされて殺されるのを見てシーザーに叫ぶ。「私も奴隷だった者の子孫だが、これはやりすぎだ」しかし、シーザーは気にもとめず、猿と人間のハルマゲドンにするのだと言う。「必ずや人間は核兵器をしようするだろう。そして彼らが自滅した跡に我々の街が築かれるのだ。そこでは人間とは奴隷としてのみ生きることを許される」だが、試写でこのラストを観たFOXの首脳陣は「過激すぎる」と言い、そのシーンをカットせざるをえなかった。

・シーザーの人間奴隷化宣言を聞いた彼の恋人リサが初めて言葉をしゃべる。「NO」と。彼女に諭されたシーザーは「神は、我々に、慈悲と理解をもって人類を支配することをお望みだろう」このセリフは撮影後に追加されたもの。脚本家のデーンはこの追加シーンによって一作目との輪廻転生が出来なくなってしまった。それは追加シーンによって「慈悲と理解」を示してしまったので、一作目と話がつながらなく、違う未来になる可能性がでてしまったから。

 

「最後の猿の惑星」(1973年公開)


・核戦争で人間社会が滅び去った後、シーザーが統治する村では猿と人間が平和に暮らしていた。まるでエデンの園のように。今回、脚本を担当したジョン・ウィリアムとジョイス・H・コーリントンは、それまでのシリーズを観て思った。「猿はまだ禁断の木の実を食べていない。だから今回私たちは猿に原罪を犯させることにした」

・ゴリラのリーダー、アルド将軍はかつて自分たちを奴隷にした人間をいまでも憎み、人間に寛容なシーザーの反感を抱いていた。廃墟に人間がミュータントとして生き残っていることが分かり、彼らとの戦争が始まる。そしてアルド将軍は、村に住む人間たちをも収容所に監禁してしまう。

・シーザーは「禁断地帯」で母ジーラが残したビデオを観て、猿と人間の戦争の結果、地球そのものがなくなってしまうという運命を知る。地球滅亡を回避するためには、猿至上主義者ゴリラたちと、人間至上主義のミュータントの両方を打ち負かし、人種戦争を終結しなくてはいけない。そこで、猿側のマイノリティであるチンパンジーと、ミュータント側のマイノリティである黒人が手を組む。

・戦いの末ミュータントを撃退したシーザーは、「猿は猿を殺さない」というタブーを破り自分の息子を殺したアルド将軍と対決し、木の上に追い詰められたアルド将軍は、墜落死する。猿が木からを落ちるということは、猿が猿でなくなったことを意味している。このアルド将軍の最後を見てマクドナルド(黒人)は言う。「これで彼らも人間になった」

・この映画のエピローグはそれから約600年後の2670年の地球。オラウータンの立法者が始祖シーザーの話を語っている。彼の話を聞いているのは人間と猿だった。ラスト・ショットはシーザーの像のアップで、涙を流している。

 

この映画を通しての感想


脚本の書き方で迷ったら逆を考えるという方法がある。例えば、男として設定した人物を女として考えてみたり、Aの会話をBに言わせて見たり。そうすることで、常識にとらわれた考えから開放され、ふと新たな価値観を発見することが出来る。

「猿の惑星」(「動物農場」も)は、まさにそうで、人間の立場を猿に置き換えた話だ。いかなるときにも偏った考え方ではなく多種多様な考えが必要だろう。だれかと対立したときに自分の考えが本当に正しいのか、何かに置き換え、誰かの立場になって考えてみたら意外と間違っているのかもしれない。まあ、そんなことは当たり前といえば当たり前の話なんだけど・・・。

おわり

 

本の行方


げん→→→→→みずしま

 

動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)
ジョージ オーウェル
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