「福翁自伝」 (岩波文庫)福沢 諭吉 (著), 富田 正文 (編)


~紹介した「佐川」(男性)さんの記録~
(2015年7月26日読書会にて)

51JBQR7Y3GL 佐川

主催者の感想というか勝手な妄想


ほとんど知らない。それが、福沢諭吉である。もちろん、一万円札に描かれていることは知っている。なので、彼のことは大好きだ。嫌いな人はいないはずだ。

なぜこんなことを書いたかというと、この 「福翁自伝」とは福沢諭吉の自伝だからである。

そんな本があったことすら知らなかった。と書いてみたが、よくよく思い出してみたら知っていたというよりカスっていた。

「江戸の読書会」(前田勉著)という本を3ヵ月ほど前に読み終えたのだが、その中に何度か引用されていた。

51YX427n8CL

この本は、江戸時代に読書会(=会読)が盛んに行われていてその理由を説いたもの。読みながらtwitterで呟きながらなんとなくまとめていたので以下に載せてみた。(面倒になって途中から呟いていなかったが・・・・・)

  • 日本では、明治初期までは本は黙読ではなく、音読して読まれていた。しかし、近代になるにつれて、極めて内的な行為である黙読が主流になる。(この辺りの考察は、松岡正剛の千夜千冊「声の文化と文字の文化」にて詳しく書かれているので興味のある方は是非)
  • 会読は、一つの書物に対してそれぞれが意見を言い合い議論を行いまとまらないときは、先生がジャッジメントをする。ディベートに近い。明治初期までは広く行われていたようだ。こう考えると、日本人はディベートが得意なはずだが、そうではない。ふとでた疑問だ。もう少し読み進めよう。
  • 江戸の読書会すなわち会読では、身分を取っ払い誰でも対等な立場で討論することができたという側面があるが、これは現在の読書会とも通ずるところがある。会社、学校での上下関係を越えて、各々の本について語りあえるというところ。
  • 荻生徂徠という江戸時代の思想家以前、以後で会読の流れは大きく違うらしい。映画でいうところのゴダール以前、以後みたいなもんかな。
  • 徂徠曰く「東を言われて、西について納得する」対立するような真逆の意見を聞き入れぶつけ合うことで、己の限界を知ったり、知見を広げたりできる。そんな朋友の存在が学ぶという行為に必要なんだとか。
  • 徂徠の考えは教育論として捉えると興味深い。先生が問題の答を何もかも教えてしまうことの無意味さ。その、「理窟」は、所詮、役に立たない「ツケヤキバ」だと。自分なりに解釈するとビジネス書なんか読んだって役に立たんよという感じだ
    江戸の読書会すなわち会読は、異国の本の翻訳をどのように行うか、どう解釈するかみんなで議論していたことなんかも発展した原因のひとつなんだね。ちょっと納得
  • 科挙のような立身出世のない、近世日本で学ぶということをしていたのは、学問が遊びとしての側面があったからではなかろうか。なんて書かれている。よく本を読めば頭がよくなるなんて言って強要させるがあんなの嘘で、好きだから遊びとして読むわけで、読みたきゃ読めばでいいよな。
  • 学ぶことは遊び心でありそれを共有して楽しむ場が読書会(会読)の原点。それ故にユーモアな仕組みを忘れちゃいけない。 「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く。」だなあ。

私も読書会を行っている訳だが、なんとなく方向性に行き詰り、なんでこんなことをしているのかと馬鹿らしくなってやめようとしたときに、酔っぱらいながらAMAZONで”読書会”と検索したときにたまたま発見した本だった。そして、読み進めてそういうことだよなあと強く共感したのが、

江戸の読書会は、「遊び」の空間だった。

という箇所である。

いま、読書会が各地で生まれている理由は、学校での勉強とは異なる自由な学問、もっと砕いて言えば、面白く、楽しく学びたいという思いがあるからであろう。江戸時代の人々もそうであった。学問は立身出世の手段ではなく、また強制されたものではない、自由に楽しめるものであったから、人々はあえて難しい書物に挑戦しようとした。ところが、強制され拘束されたときに、その遊びの面白さはなくなる。(「江戸の読書会」p387 引用)

そして、この本の著者は、丸山眞男による福沢諭吉論を踏まえて、以下のように締めくくっている。

遊びを遊びとして真面目に行う所から、精神的余裕が生まれるという丸山の福沢理解は、「遊び―真面目という対象関係は、いつも流動的である。遊びの劣等生は、それに対応する真面目の優越性と絶えず境を接していて、遊びは真面目に転換し、真面目は遊びに変化する。遊びが真面目を俗界に置き去りにして、美と聖の遥かな高みに翔けのぼってゆくことさえありえないわけでなはい」(『ホモ・ルーデンス』)とするホイジンガの遊び論と等しいものであるとともに、会読の精神だともいえるだろう。そういえば、窪田次郎は自らの学習結社を「蛙鳴群」と名付け、千葉卓三郎は自分の名を「ジャパネス国法学大博士タクロン・チーバー氏」と署名し、住所を西多摩郡五日市町ではなく、「「自由権(県)下、不羈郡浩然気村貴重番地」だとしていた。このユーモア精神、これこそが、精神的な余裕だった。政治的な対立・衝突のなかでも、このユーモアの精神を失うことがなければ、血で血を争う党争も起こらないだろう。また、立身出世のための競争が自己目的化して、努力人間がはびこることにもならないだろう。読書会の場でこうした精神をみにつけることができたら、なんとも素晴らしいではないか。(「江戸の読書会」p391 引用)

「このお店のクッキー美味しかったよ」

目指す読書会はこれである。クッキーが美味しいという情報を得たところで、何がどうなるという訳ではない。無意味である。

「とっても、サクサクしてて、食べたときに口の中にフワッと広がって溶けるようになくなるんだよ。なんかとっても不思議な感じで・・・・。そしてね、お口の中にしばらく香ばしい香りが残るの。思い出しただけで、ほっぺた落ちちゃう」

嬉しそうに語る友達。だが、このクッキーを食べて、人生を左右するようなことはまずない。でも、友達の嬉しそうな表情をみたらなんだか幸せな気持ちになるだろう。そして、実際に買ってみたら、別にさほど美味しくなかった。

「ねぇ、この前のクッキー買ったんだけど・・・・・・・」

「どうだった?ほっぺた落ちた?」

「んー、美味しんだけど、そのなんていうのかなぁ、そんな凄いってわけじゃなかった感じだった・・・・」

「えー、マジで言ってんの?絶対美味しいって。もぉー、だから、料理が下手なんだよ」

「なにその言い方。ってかさぁあんただって料理できないじゃん」

「そうだった(笑)」

なんてことない無意味な会話だが、その積み重ねが日常を彩るための”遊び”を与えてくれる気がする。

たかが、2時間そこらの読書会で仕事上に役立つスキルなんか身に付く訳がない。そうではなく、本を通じた”遊び”としての会話を楽しむ場が読書会のあるべき姿だろう。

 

おわり

 

本の行方


佐川→→→→→ヤマダ
新訂 福翁自伝 (岩波文庫)
福沢 諭吉
岩波書店
売り上げランキング: 9,418
江戸の読書会 (平凡社選書)
前田 勉
平凡社
売り上げランキング: 331,117